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プレス関係者の方へ 夏の特集展示 2024「戦争の時代 日本における藤田嗣治 日常から戦時下へ」に関するプレスリリース配信を開始しました。
《額装を作る》1941年 土門拳 土門拳記念館蔵夏の特集展示 2024「戦争の時代 日本における藤田嗣治 日常から戦時下へ」が、2024年7月25日(木)から9月24日(火)2まで開催 オンライン・プレスリリース 夏の特集展示2024「戦争の時代 日本における藤田嗣治 日常から戦時下へ」 軽井沢安東美術館(長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢東43番地10)にて、夏の特集展示2024「戦争の時代 日本における藤田嗣治 日常から戦時下へ」を2024年7月25日(木)から開催いたします。1920年代パリ、「乳白色の肌」で一躍時の人となった藤田嗣治は、1933年から日本を拠点に活動し、1938年以降は従軍画家として戦争画を制作しました。本展では、藤田が名声を手にしたパリ時代と、戦後、二度と日本に帰らぬ決意でスタートしたフランス生活時代とのはざまとなる、藤田が日本に滞在した1930年・40年代にフォーカスします。戦争の影が忍び寄り、次第に戦争へと巻き込まれていく藤田の内面に迫ります。 本展の掲載お申込み・広報用画像のご提供、および内覧会へのご参加申込みは、下記のオンライン・プレスリリースページよりお手続きいただけます。
1920年代、「乳白色の肌」の裸婦で一躍時の人となった藤田嗣治。1929年に凱旋帰国展のために一時帰国した後、1933年からは日本を活動の拠点とし、1938年以降は従軍画家として戦争画を制作しました。しかし、戦後、戦争責任をめぐる問題で傷心した藤田は1949年にニューヨーク経由でフランスを旅立ち、それ以降、再び日本に戻ってくることはありませんでした。
藤田が長期にわたって日本に滞在した1930年代、次第に戦争の足音が近づきつつも、藤田は変わらず作品制作に意欲的でした。フランスや中南米での経験をもとに壁画を多く手がけ、メキシコで出会った人たちを描くほか、肖像画の制作も精力的にこなしました。また日本画を多く描いたのも日本滞在中でした。1934年には二科会にも所属し、日本を拠点に活躍していく姿勢を示しています。また藤田は外務省などから、海外へ向けた日本文化の紹介という任務を受けたこともあって、日本全国津々浦々を旅をし、日本の風景・風習・伝統を描きました。こうした日々を送るなかで藤田は、日本について綴った文章を多く残しています。一方、戦争が本格化するまで、藤田は「国際人」として作品や文章を通じてフランスを紹介することにも精力的でした。
1937年に日中戦争が勃発すると、藤田を含む多くの画家たちが従軍画家となり、母国のために制作に取り組みました。藤田の作品からは西欧的なモティーフは消え去り、画風は日本的なものへと変化します。その後は「銃後の生活」や戦場にフォーカスした作品を描いていきました。しかし、1939年4月、突如、藤田は5番目の妻となった君代と共に日本を後にし、パリに向かいます。そしてヨーロッパの戦局が悪化し帰国を余儀なくされるまで、藤田はフランスに留まり続けました。最終的に1940年5月に帰国、それから藤田は頭を丸め、戦争画の大作をいくつも手がけ、従軍画家としての使命を全うしたのでした。
渡仏の理由について藤田は「芸術を媒介として国際親善の一役を買って」出るためだったと述べていますが、真相はわかっていません。1939年に藤田が記した日記や手帳を見るかぎり、戦時下であるということを除いては、かつてのパリ生活と大きく変わったところはみられず、日々、作品を制作し、現地の日本人とさかんに交流しました。ただ戦局には敏感で、戦時下での出来事を詳細に記録しています。そして日本に再び戻ってきた藤田は戦争画の制作に没頭し、《アッツ島玉砕》(1943年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館蔵)をはじめとする大作を生み出していきました。
本展では、藤田が名声を手にしたエコール・ド・パリ時代と戦後のフランス生活とのはざまにある時代、すなわち、藤田が日本に滞在した1930年代、40年代にフォーカスします。日常に戦争の影が忍び寄り、次第に戦争が激しくなるなかで生み出された藤田の作品、そして土門拳撮影による貴重なポートレート写真をご紹介します。当時の藤田の心情に思いを馳せながら、鑑賞をお楽しみください。
オンライン・プレスリリース 夏の特集展示2024「戦争の時代 日本における藤田嗣治 日常から戦時下へ」