展覧会

展覧会 開催予定

終戦80周年記念特別企画
藤田嗣治 戦争と芸術のはざまで -戦場、銃後の風景、日常を描く-

《九江 航空隊 整備》 1940年 油彩・キャンバス © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 B0909

開催概要

会期
ご利用案内 開館時間 / 休館日、入館料、サロンについてはこちらもご確認ください。

展覧会概要

第二次世界大戦下においては、画家が戦地に赴いて取材をする傍ら、戦場や兵士の様子、現地の風景、そして銃後の生活などを描いた戦争記録画(以下、戦争画と表記)が数多く制作されました。制作したのは、戦意高揚と軍の宣伝を目的に指名を受けた一流の画家たちでした。彼らは従軍画家と呼ばれ、1938年、藤田もこのメンバーに加わりました。しかし、戦後、彼らを待っていたのは、画家仲間からの厳しい批判でした。
1945年10月14日、医師で洋画家でもあった宮田重雄が「美術家の節操」と題した文章を朝日新聞に投稿、藤田はじめ、戦争画を描いた画家たちを「ファシズムに便乗し通した人」と呼び、「作家的良心あらば」「謹慎すべき時」であると主張したのです。翌年には、日本美術の民主的な発展と新たな価値の創造を掲げて発足した日本美術会が「自粛を求める」美術家として、藤田嗣治、中村研一、鶴田吾郎、横山大観など、8名の画家を名指しするという出来事が起こりました。同じ頃、藤田の友人で、当時、日本美術会の書記長だった内田巌は藤田のもとを訪れ、美術会での活動自粛を求める通知を言い渡したといいます。

一方、藤田の主張は次のようなものでした―画家とは真の自由愛好家で、軍国主義者であろうはずがない、「戦争発起人でも」「捕虜を虐待した訳でもなく」、国民の義務を果たしただけと考えているが、本当に戦犯として裁かれるのであれば、せめて紙と鉛筆だけを与えてほしい―。こうした言葉には、国民の義務として従軍しつつも、画家として戦争画と向き合った藤田の姿がうかがえます。事実、藤田が残した数々の言葉からは、当時、従軍画家としての使命を担った中で、芸術表現を研磨しようとした意気込みが感じられます。

本展では、終戦80周年を記念した特別企画として、藤田が描いた戦争画をはじめ、戦時下における彼のさまざまな画業を紹介します。当時、従軍画家として第一線で活動を続けた藤田は、何を描こうとしたのか。藤田の言葉も手がかりとしながら、戦時下で制作された数々の作品を丁寧に読み解きます。

みどころ

初公開作品が出展

《輸送隊》 制作年不詳 インク、水彩・紙

戦時下において『ホロンバイルの荒鷲』(1941年刊行)と『バルシヤガル草原』(1942年刊行)の装幀と扉絵を手がけた藤田。本展では、その原画である《飛行場》(インク、水彩・紙 制作年不詳)と《輸送隊》(インク、水彩・紙 制作年不詳)が初公開となります。また、同じく当時戦争画を描いていた日本画家 吉岡堅二との合作《貝》(水彩、墨・紙 1942-1944年頃)も初公開となります。。戦局がもっとも厳しい頃、二人は何を思い、この作品を描いたのでしょうか。
作品画像:《輸送隊》 制作年不詳 インク、水彩・紙

戦時下のパリを記録した手帳と作品のご紹介

作品画像:《巴里オルドネ―ル町》 1940年 油彩・キャンバス

従軍画家となった翌年の1939年4月、藤田は突如、パリへと飛び立ちます。しかし、パリの戦局悪化にともない、翌年7月、画家の高野三三男らと共に伏見丸で帰国しました。その後、藤田は戦争画の制作に力を入れていくことになります。本展では、約1年というわずかなパリ滞在期に描かれた作品や、戦時下のパリについて藤田が記録した手帳を公開します。パリのオルドネ―ル通りを描いた《巴里 オルドネ―ル》(1940年 油彩・キャンバス)は当館・初公開作品です。ドイツ軍の侵攻が迫る1940年に描かれたこの作品からは、静まり返ったパリの様子を窺い知ることができます。
作品画像:《巴里 オルドネ―ル》 1940年 油彩・キャンバス

同時開催

特集展示「藤田嗣治と高野三三男 戦時下における交友の記録 ~高野三三男 旧蔵コレクションより」
会期:2025年7月17日(木)~9月28日(火) 会場:特別展示室
1939年、君代と共にパリに渡った藤田は、画家仲間の高野三三男が住むアトリエの向かいに住居を構え、約一年にわたって共に多くの時間を過ごしました。1940年5月、ドイツ軍の侵攻が迫るパリから逃れるときも、二人は家族とともに伏見丸に乗り込み、帰国しました。道中、二人は似顔絵を描き合ったり、記念写真を撮ったりしながら、約1か月半かけて神戸港に到着します。特集展示では、高野三三男のご息女である耀子氏のご協力のもと、藤田と高野の交友の記録を公開いたします。また帰国した高野が描いた戦争画もあわせてご覧いただきます。

高野三三男(こうのみさお)
1900年3月30日~1970年8月15日。東京都出身。フランスと日本で活躍したアール・デコ様式の画家。パリのモンパルナスで活躍した画家で、エコール・ド・パリの一人に数えられる。1922年、東京美術学校(現・東京藝術大学)洋画科に入学するも、翌年に起こった関東大震災のため、制作に専念できないことから、1924年に渡仏。渡仏後は個展の開催やサロンへの出品を意欲的に行ない、フランス画壇で認められる日本人画家となった。第二次世界大戦の勃発により、1940年、藤田らとともに帰国。帰国後は一水会に入会。文展や日展等の審査員を歴任し、1954年には現代日本美術展で大衆賞を受賞。1979年、敗血種のために死去。娘はピアニストの高野耀子。

「藤田嗣治 猫のいる風景 -かたわらの動物たち-」が、2025年3月6日(木)より9月28日(日)まで開催

オンライン・プレスリリース 「藤田嗣治 猫のいる風景 -かたわらの動物たち-」


展覧会概要
本展では、藤田嗣治の作品に多く登場する猫をはじめ、藤田が描いたさまざまな動物にフォーカスし、その魅力に迫ります。裸婦の後ろで眠る猫が愛らしい当館初公開作品の《天蓋の裸婦》(1954年 油彩・キャンバス)ほか、様々な表情やしぐさの猫や動物たちに目を留めながら、当館コレクションをご鑑賞下さい。

藤田が描いた猫 展示室 5
藤田にとって猫は友であり、描く対象でした。猫のいる生活は藤田が渡仏してまもなくのこと。パリで足にまとわりついてきた猫を拾い上げ、自宅に連れ帰ったのがきっかけでした。それ以降、藤田は身近な画題として猫を描き始めます。1920年代、藤田は裸婦像に猫を登場させ、繰り返し制作した自画像にも猫を描き込みました。藤田に寄り添う猫の姿は、まるで相棒のよう―。こうして猫はおかっぱ頭やロイドメガネとともに、藤田を象徴するアイコン的存在となっていきます。
1929年になると、藤田の猫はそれまでの脇役的な位置づけから抜け出します。「乳白色の下地」に通じる色合いとドライポイントやエッチング等を組み合わせた混合技法で、かわいいしぐさの猫ばかりを収めた版画集『猫十態』がパリのアポロ社から出版されました。1930年、ニューヨークのコビチ・フリード社から出版された版画本『猫の本』には、イギリスの詩人マイケル・ジョセフの詩とともに、ふんわりとした毛並みが特徴的な、藤田ならではの猫21匹が登場します。ジョセフが全ての猫に名前をつけたことで、藤田が描いた猫はいっそう個性が感じられる存在に―。
1950年、アメリカで出版された『夜と猫』は小説家で詩人のエリザベス・コーツワースが綴った猫の詩に、藤田がまどろむ猫の素描を寄せた美しくも幻想的な絵本です。この頃から藤田が描く猫には類型化が見られるようになり、『夜と猫』では、クリっと丸い目をした猫たちがページを飾っています。《猫の教室》(1949年 油彩・キャンバス)では、擬人化された猫の先生と生徒たちが登場し、自由気ままに振舞う子どもたちと賑やかな教室の情景が描かれました。彼らは個性をまとい表情も十人十色ですが、描き方には一定のパターンが見られます。1950年代以降、藤田が描いた少女たちが「想像上の子ども」であったように、猫たちも、長年、猫を観察してきた藤田が作り上げた理想像だったのかもしれません。

人々の生活に寄り添うさまざまな動物たち 展示室 2・3
藤田が「友」と呼び、愛しんだ猫のほか、他の動物たちが描かれた作品にもフォーカスします。藤田が描いたのは、人々のかたわらにいた動物たち。これらの作品を通じて、動物への温かなまなざしや藤田独特の世界観を、どうぞお楽しみください。


プレス関係者の方へ
本展の掲載お申込み・広報用画像のご提供、および内覧会へのご参加申込みは、下記のオンライン・プレスリリースページよりお手続きいただけます。
オンライン・プレスリリース「藤田嗣治 戦争と芸術のはざまで -戦場、銃後の風景、日常を描く-」