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すごい日本人がいた|世界で活躍した画家 藤田嗣治のニューヨーク物語

すごい日本人がいた!
─ピカソも認めた男、藤田嗣治の知られざる物語─

おかっぱ頭にロイドメガネと呼ばれる丸メガネ。
そしてチャップリンのような、ちょび髭。
強烈なインパクトを放つこの男をご存知だろうか。

西洋文化が押し寄せる明治時代に生まれ、
異国の地で頂点を極めた日本人画家。
名は、藤田嗣治(レオナール・フジタ)

藤田嗣治 ポートレート

実は彼、「葛飾北斎に匹敵する」と言われるほど、
世界的に有名な日本人画家である。
しかし、現代の日本での知名度は、彼の世界的評価に比べるとそれほど高いとは言えない。
それには、彼の人生を大きく揺るがした“ある悲劇”が関係していた。

Chapter 1

ヨーロッパを席巻した
唯一無二の「乳白色の下地」

1913年、20代の藤田は単身、世界の美術の都・パリへ渡る。
そこで彼は、ピカソやモディリアーニ、キスリングといった、のちに美術史に名を残す天才たちと交流を深め、切磋琢磨していく。

そして1920年代、藤田は世界を驚嘆させる技法を生み出した。

「乳白色の下地」の裸婦

陶器のようになめらかで、透き通るような白い肌。
他の西洋画家がどうやっても真似できないその絵はヨーロッパを席巻し、藤田は瞬く間に時代の寵児となる。また、猫を繰り返し愛情深く描いたことで「猫の画家」としても愛された。

藤田は間違いなく、西洋美術の頂点に立った唯一の日本人だったのだ。

乳白色の下地

Chapter 2

栄光からの暗転。
引き裂かれた祖国との絆

しかし、栄華を極めた藤田の人生は、第二次世界大戦によって大きく揺さぶられる。

戦争が激化する中、藤田は日本へ帰国し「戦争画」の制作に携わった。
だがあろうことか、戦後になるとその活動が激しい非難の的となってしまう。
世界的なスター画家を取り巻く状況は一転し、彼は日本に居場所を失ったのだ。

「ただ、絵を描きたい――」

藤田の願いは、ただこれだけだった。
批判渦巻く日本を後にし、彼は再びかつての栄光の地・パリへ向かうことを決意する。

戦争の影

Chapter 3

人生最大の転換点。
画家・フジタを蘇らせた奇跡の街

祖国を追われ、絶望の淵に立たされた藤田。
しかし、敗戦直後の日本人にとって、パリへの渡航はすぐには叶わなかった。1949年3月、彼がようやく降り立ったのは、経由地である「ニューヨーク」だった。

失意のまま立ち寄ったはずのこの街が、藤田の運命を劇的に変える。
摩天楼がそびえ立つ、エネルギーに満ちた新大陸。過去の重圧やしがらみから完全に解き放たれた藤田の筆は、まるで息を吹き返したかのように躍動を始める。

抑圧されていた創造力が爆発し、色彩豊かで、ユーモアに溢れ、これまでにない自由な作品を次々と生み出していったのだ。軽井沢安東美術館が誇る大作《猫の教室》も、まさにこのエネルギーの中で制作された。

81年という生涯の中で、
ニューヨーク滞在はわずか10か月。
しかしこの期間こそが、一人の天才がどん底から這い上がり、“画家”として完璧な再生を遂げたターニングポイントであった。

NewYorkin1940s

藤田はニューヨークで何を思い、何に挑んだのだろうか。

当館が所蔵する数々の名作も、この奇跡の期間に生み出された。

生誕140周年記念企画

「ニューヨークの藤田嗣治」

7月11日(土)開幕

日本を離れ、パリへ向かうまでの“奇跡の10か月”。
絶望から這い上がり、絵を描く喜びに満ち溢れた藤田の知られざる再生の物語。
その謎を解き明かすかつてない展覧会を、ぜひ当館でご体感ください。

お得な入館チケットはこちら

MUSEUM INFO

【世界初】藤田嗣治の作品だけを展示する、
自宅のような美術館

軽井沢安東美術館は、藤田嗣治の作品約300点を収蔵し、藤田嗣治だけを展示する私設美術館です。

軽井沢安東美術館

生誕140周年記念企画「ニューヨークの藤田嗣治」

1949年3月に日本を離れ、パリに渡るまでの約10か月間におよぶニューヨーク滞在に焦点を当てた展覧会です。画家 藤田が再起をかけたこの時代を掘り下げます。

ニューヨーク展